第5.1 もう一度考えよう

1 もう一度考えよう

何が人生の幸福か?

悔いのない人生のために (5.1.1)

 

孫子は、戦争を始めるか否かを判断するにあたり、「彼」と「己」との比較検討を厳しく行うことを説きました。それは「戦争」が国家の大事であったからです。

 

これに対し、私たちが人生を送るうえで遭遇するさまざまな勝負は、国家の大事ではなく、また、自分自身にとっても命を取られるほどの大事ではありません。ですから、割と気軽に開戦を決断しても構いませんでした。

 

しかしそれでも、長期戦ともなれば事情は変わります。例えば、何かの資格を取ろうと思い、そのための受験を決意したとして、最初は、1%の可能性を2%に高めることができるか、2%の可能性を3%に高めることはできるか、最終的に30%くらいまで高めることができるか、などと考えて、できそうならば開始してよいと思います。しかし、これが長くなるようであれば、立ち止まって、もう一度考える機会をもつべきでしょう。

 

「臨機応変の戦略」は、闘いに勝つための考え方を示すものです。しかし、臨機応変に対処したからと言って、常に勝つことができるとは限りません。敵を小さくし、自分を大きくし、それでも埋まらない差を工夫によって補うとしても、補い切れない場合というのは必ずあるものです。当初の見通しとは違う」ということは、必ず起こります。それは、人間の想像力に限界がある以上、仕方のないことです。「見積もり」は、あくまで「見積もり」にすぎないのです。

 

「臨機応変の戦略」は、もし闘うならば、どのように闘うのが合理的か、というためのヒントを与えてくれますが、そもそも闘うべきか否かは、その考え方の外側にある問題です。それは、結局のところ、どの限度の時間と労力と財産を投入してならば、その成果を勝ち取ることに意味があるか――人生にプラスか――という「人生を生きていくうえでの価値判断」の問題です。

 

例えば、各種の資格を取ることは、選択できる職業の幅を広げたり、就職できる企業の選択肢を増やすことになるかもしれません。しかし「何年かかってでもそれを取得することに意味がある」という場合は、ほとんどありません。今後の就労可能な年数などとの兼ね合いで、あまりに長期戦になれば意味がなくなることもあります。また、そこまで時間がかかるのならば、いっそ別の資格に切り替えたほうがよいのではないか、という考え方も出てきます。

 

一度ある目標を設定した場合、その達成を目指す限りにおいては、それを至上命題として必死に取り組んだ方がよいことは、事実です。迷いはチカラを分散させるからです。しかし、常に頭に置いておかなければならないことは、その目標は、決して「人生における至上命題」ではない、ということです。

 

では「人生における至上命題」とは何でしょうか?

 

究極的には、これは人それぞれの問題であって、一般化して言えることではありません。しかし、あえて一般化して言うならば、「その人の幸福」ではないでしょうか。もちろん、何が幸福であるかは、その人それぞれが決めることであり、また、本書が冒頭でも述べたとおり、各人に「配られたカード」はそもそも平等ではないのですから、その人の人生においてどこまでのどんな幸福を期待できるかは、それぞれの人生において異なるでしょう。しかしだれもが、それぞれの人生において、可能な限りの限りの幸福の実現を求めて生きていることは、おそらく間違いないでしょう。

 

そして、そのような観点からするとき、その時々に設定した「目標」は、結局のところは、相対的なものにすぎません。その人生において、絶対的な目標――この目標が達成されない限り、幸福の量はまったく増加しない――などというものはないのです。

 

例えば、ある人が、いま「弁護士になりたい」という目標設定をしたとします。実際、私の周りにはそういう人がたくさんいました。しかし、私が司法試験を受験していたころもそうですし、その後受験指導をしていたころもそうですし、さらに法科大学院に関わっていたころもそうですが、司法試験に合格して弁護士になることができた人よりは、司法試験を断念して進路を変えて行った人の方が圧倒的に多いのです。

 

しかし、目標を達成して弁護士になることができた人の方が、目標を達成できなかった人よりも、幸福であるかというと、必ずしもそうでありません。確かに、合格した瞬間、不合格になってしまった瞬間には、一方は嬉しく、一方が悲しいことは、疑いありません。しかし、その後の推移を見てみると、前者の方が幸福で後者の方が不幸であるとは、必ずしも言えないように思います。実際、司法試験に合格し、弁護士になるという目標を達成しながら、その後、自らの意思で弁護士という職を辞した人を何人か知っています。もしかすると「弁護士になる」という目標設定は、その人たちにとっては、幸福に生きるという「人生の究極の目標」への進路からズレたところに存在していたのかもしれません。

 

 

何が人生の幸福か? (5.1.2)

 

私自身、人生における選択として、弁護士になったことが本当によかったのか、という疑問をもつことがあります。

 

私が大学卒業を目前に控えていたころ、大学院に進むという道を一方で考えていました。刑法学者になりたかったのです。しかし、大学のゼミの恩師であるH先生に相談すると「司法試験に合格してから来なさい」と言われました。それで、いずれにしても司法試験には突破しようと決意したのです。ですから、司法試験に合格した段階でもう一度学問の道を目指すという選択もあったのでしょう。

 

しかし、自分の予想以上に長い年数を要してしまったということもあり、司法試験に合格すると、そんなことはコロリと忘れて、そのまま→司法修習→弁護士、という道を歩んでしまいまったのでした。

 

しかし、弁護士を続けて20年を超えた今、やはり研究者や教育者の仕事の方がよかったなぁ、などと考える昨今です。真理を探求する研究者の仕事は、極めてシンプルです。若い人たちを育てる教育者の仕事には夢も希望もあります。しかし、弁護士の仕事はどうでしょう……。

 

私が弁護士になってよかったなと思うのは、社会の汚い部分を知ることができたことです。弁護士になる前の自分のことを思うと「なんて脳天気だったんだろう」と思います。時代の影響もあったとは思いますが、「日本はいい国だ」と本気で信じていたのですから。ホントに馬鹿ですよね。

 

私が弁護士になって、真っ先にキライになったのは「公務員」でした。そして、刑事事件を数多く手がけるようになると、「裁判官」も「検察官」も「警察官」も、みんな大キライになりました。「刑事裁判で正義が行われている」なんてことが幻想であることを、思い知らされました。来る日も来る日もこんな現実を目の当たりにし、しかもその中であまりにも無力な自分と向き合わなければならない毎日はツラく、「早く弁護士を辞めたい」というのが、そのころは口癖になっていました。

 

その一方で、大学の授業の準備をし、授業をし、学生と話すことは、私にとって楽しいひと時です。また、論文を書くために文献に埋もれて過ごす時間は、汚い現実を忘れさせてくれます。

 

「やはり、あの時、大学院に進んでいた方がよかったのではないだろうか?」

 

そう思う反面、この汚い現実を知らずあの脳天気のままで教壇に立ち、学生を前にエラそうに講義していたかもしれない自分を思うと、ゾッとします。主観的には幸せだったかもしれませんが、大変迷惑で有害な存在になっていたかもしれません。そう思うと、やはり弁護士になったことは正解だったのかもしれないとも思います。自分自身でも答えの出ない問題です。

 

「見切り千両」もう一度 (5.1.3)

 

「見切り千両」という言葉があります。相場格言の一つで、含み損の状態にある株式などは、反転を期待して保有し続けるのでなく、手放して損切りすべきだ、という教訓のようです(「デジタル大辞泉」より)。

 

株は、上がる場合もあれば下がる場合もあり、だれもが「上がる」と思って買うわけですが、予想に反して下がってしまう場合もあるわけです。こういう時に、考え方は2つで、1つは、しばらくして反転することを期待して保有したまま「様子を見る」こと、もう1つは、その時点で、その株を「見切り」売ってしまうことです。おそらく、ふつうは前者のように考えて、様子をみるということをしてしまいがちなのでしょう。

 

株は、それを売却しない限りは「損」が現実化しません。100万円で買った株式10株は、株の株価が下がったとしても、株式の数が減るわけではありません。10株は、10株のままです。しかし、これを売って80万円しか戻って来なければ、20万円損したことは明白になります。当初100万円あったものが、80万円になってしまったのですから。しかし、もし株式を売らず、そのまま温存しておいた場合に、その後、相場が反転して株価が上昇し、買った金額よりも高くなれば、結果的には「得」をしたことになります。そうなれば、結果的には、自分は株の購入において「失敗」しなかったことになり「プライド」も保たれます。ふつうはこう考えてしまうのでしょう。

 

しかし、下がり始めている株は、いつになったら反転するのでしょうか。反転するという保証はどこにもないのです。それどころか、すでに下がり始めているのですから、むしろそのまま下がり続けてしまうというのが、ふつうの予測でしょう。そうなれば、損はどんどん拡大してしまいます。ですから、直ちに前に売ってしまえば、損害を最小限に抑えることができるわけです。

 

しかし、ここには、1つの心理的な抵抗が伴います。なぜなら、損害を現実化させるということは、購入時における自分の判断が適切でなかった――つまり失敗した――ということを顕在化させることになるからです。

 

人は、だれでも「損」をすることを嫌います。特にそれが、自分の判断ミスによって招いた損であるとしたら、特にイヤなのです。おそらく、「損」をしたことに加え、自分が「愚かだ」という現実を突き付けられたような気持ちになるからでしょう。だれも、自分が馬鹿だとは思いたくありません。自分は賢いと思いたいのです。

 

しかし、その「自分を賢い」と思いたい、「自分は失敗していない」と思いたい、というその心理ゆえに、実際には、損切りができないという形で「愚かな選択」を積み重ねてしまうのが、人間というものなのでしょう。

 

だからこそ、あえてその人間心理を乗り越えて「見切り」を付け、損を最小限に食い止めるという選択に「千両」の価値がある、と言われているのでしょう。


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