第5.2 退却は玉砕より難しい

2 退却は玉砕より難しい

何が人生の幸福か?

騙される人は愚かなのか? (5.2.1)

 

人には、多かれ少なかれ自尊心があります。少なくとも、自分を愚かだとは思いたくありません。しかし、この感情が、時に適切な判断を誤らせます。

 

ある選択をした直後に、その選択が「正しくなかったかな?」と気づいても、自分が失敗したと思いたくないために、何とかそれが失敗ではなかったかのように考えてしまう傾向があります。

 

もっと普遍化して言えば、人間には「信じたいものを信じる」あるいは「自分に都合のよい見解を信じる」という傾向があるように思います。そこで、自分が失敗したことになる見解(→いますぐ株を売るべきだ)と、自分が失敗したことにならない見解(→反転するかもしれないのでしばらく様子を見よう)という2つの見解があると、どうしても、自分に都合のよい見解を採用してしまいがちなのでしょう。

 

そして、こういう心理の作用は、日常生活のあらゆる場面で見付けることができます。

 

例えば、悪い男に騙された女性がいるとします。自分には妻子がいるのに、独身だと嘘を言われて何年間も交際させられたとか、妻と別れる気持ちなどさらさらないのに、「妻とはうまくいっていない。もうここ数年間、夜の生活もない。近いうちに妻と別れて、きみと一緒になる」などと言われたために交際に応じていたとか、そういう場合です。ところが、ある日、その男が妻と小さな子供を連れて仲良く公園で過ごしているところを目撃してしまい、その男の話がすべて虚偽であったことが発覚したとします。

 

こういう場合、この女性は、思い返してみると、その男の怪しい言動がいくつも思い出されたりします。「そういえば……」という具合です。いまにして思えば、いかにも怪しい。なんであの時に気づかなかったんだろう、と悔しく思います。

 

しかし、これは、ある意味、仕方のないことなのです。いまだから「怪しい」と思えるのであって、その当時は「そんなはずはない」と無意識に打ち消してしまっているからです。

 

ある不審な事実を目の前にして、そこから「彼が嘘をついている」「彼は嘘をついていない」という2つの見解が導かれるとしても、彼とうまくいっている時は、どうしても「彼は嘘をついていない」という自分にとって好ましい見解を採用してしまうのです。

 

彼が嘘をついているということになれば、それが意味するところは、彼は自分を愛していない(あるいは、自分よりも妻を愛している)ということでしょうし、また、彼とは結婚できないこと、彼を失うこと、などを同時に意味するでしょう。それは、その時点において彼女にとって決して望ましいことではない――と言うより、むしろ信じたくない現実――でしょう。

 

しかも、悪いことに、人は人を疑うときには、単にそのことだけでも心理的な負担を感じるものです。「こんなふうに人を疑うなんて、もし間違っていたら相手に失礼ではないか」と感じたり、人を疑っている自分のことが汚い人間であるかのように感じてしまったりするのです。この傾向は、特に、自分自身が誠実で正直な人ほど強いと思います。ですから、そういう人であればあるほど、そもそも「信じたい」という方向に強いバイアスがかかるのです。それが自分の好きな男性のことであれば、なおさらでしょう。

 

ですから、多くの女性が、後で考えれば「なんで?」と思うような、悪い男たちの稚拙な言動によって騙され、翻弄されるのです。

 

こういう悪い男たちの身勝手な行為によって、女性は二重、三重に損害や苦痛を受けます。まず、こんなくだらない男たちのために人生の貴重な時間を奪われたこと自体が大きな損害です。特に若くてキレイな時間を、なぜこんな男たちのために費やさなければならなかったのか。そう憤ることでしょう。

 

次に、彼女たちは、実にさまざまな出費を強いられているはずです。それにはお金も含まれますが、それ以外の愛情や献身もあるでしょう。それを、なんでこんなくだらない男たちのために……と怒りがこみ上げることでしょう。

 

しかし、さらに輪を掛けて彼女たちを苦しめるのは、彼女たちが彼らに「騙された」ことで、自分を「愚かだ」と感じてしまうことです。そして、こうした感情に苛まれることが特に強いのは、それまで、何につけても――学校でも、会社でも、日常生活でも――一生懸命に取り組み、真面目に、誠実に、生活してきた女性に多いように思います。こうした女性は、それまで「自分はしっかりとやってきた」という自負があるために、「騙された」という自分が許せないのです。特に、後になって思い返せば、前述したように、いろいろと思い当たるふしは思い出されます。ああ、なぜあの時、気づかなかったのか……。臍を噛むような気持ちになるのです。

 

しかし、断定しますが「騙されたから愚かだ」というのは間違っています。

 

その理由は、2つあります。

 

第1に、騙す方は、多くの人間が避けることのできない人間心理を利用し、そこを突いて騙しているということです。

 

例えば、「オレのことが信用できないのか?」というのは、嘘をついている男の常套文句ですが、これは、人を疑うことに伴う心理的負担を巧みに利用しようとして、自分に対する疑いの目をかわそうとしているのです。このセリフがこういう輩の常套文句だと知っていれば、むしろこのセリフを聞いた瞬間に「怪しい」と思うのでしょうが、知らなければ、むしろ相手を疑った自分の方を責めてしまいます。マジックは、タネを知っていれば、何ということもありませんが、タネを知らなければ大概の人が騙されます。それは、そういうふうに作られているからです。ですから、マジックを見て不思議に思ったからといって、「愚か」というわけではありません。騙される場合も、これと同じことです。

 

第2に、騙される際の最も大きな要素は、「油断」だということです。

 

これは「まさか騙すようなことはしないだろう」という先入観とも言えますし、相手に対して心を開いている状態と言ってもいいでしょう。とにかく、こういう心理状態の時に、人はいとも簡単に騙されるのです。

 

 

弁護士も騙される (5.2.2)

 

実は、かく言う私自身も、よく騙されました。例を挙げましょう。

 

私が、最初に外国人の刑事事件を担当したときのことです。当番弁護士として呼ばれ、ある中国人の留学生に接見しました。彼は、書店から本を万引きしたとして逮捕されていました。話を聞くと、彼はこう言いました。

 

「自分は、その書店で本を探していた。何冊か手にとっていたところ、
 携帯電話に電話がかかってきた。けれども、店内で話すことはできないので、
 本を手に持ったまま、書店の出入り口から少し外に出た。
 そこで、いきなり万引きと言われ、店員に捕まった」

 

彼は、私に切々と語りました。

 

みなさんなら、信じますか?

 

私は、信じました。そして、彼が通っている日本語学校の先生などの協力を得て、彼がいかに真面目な学生であるか、彼が当日、本を買うことが出来るだけのお金を持っていたことなどを「上申書」にまとめ上げ、担当の検事と会いました。

 

担当の検事は、私の話を聞くと、ニヤリと笑い、言いました。

 

「先生。一部始終を私服の警備員が見てるんですよ」

 

え? そんな馬鹿な。私は、検察庁から出ると、その足で、彼が勾留されている警察署に向かいました。
そして、彼と会い、いま検事と会ってきたと話し、尋ねました。

 

「一部始終を見ていた人がいると検事が言っているけど、どうなの?」

 

「――先生、ごめんなさい。ウソをついてまいした。本当は万引きしました」

 

「……」

 

これが、私の外国人事件第一号での出来事です。
その後、別の被疑者ですが、同様の手口で、私はもう一度騙されました。

 

その時、その被疑者の中国人女性は、涙ながらに「本当です。私を信じてください」と訴えました。
私は、その様子を見て、この被疑者を信用できない自分がいかにも汚らしい人間に思え、信用することにしました。

 

ところが、検事からは

 

「先生。ビデオがあるんですよ」

 

と言われました。そしてそれを伝えると、その被疑者は言いました。

 

「――先生、ごめんなさい。私、ウソをつきました」

 

「……」

 

後で考えれば、こんな話、どう考えてもおかしいでしょう?
しかし、その場では信用させられてしまうのです。

 

その後、外国人の刑事事件を多数こなすようになると、さすがに私も、めったに騙されないようになりました。

 

被疑者が変な言い訳をした時は、私は、更に突っ込んで質問したうえで、

 

@弁護士があなたの味方であること、
Aここで話した内容は絶対に外部(特に警察)には漏れないこと、
Bたとえあながた実際には犯行していたとしても私はあなたを責めないし、あなたにとって最善の結果になるように努力すること、
Cあなたが私にウソをついていると私はあたなに対するアドバイスを間違ってしまい、結局、あなたにとって悪い結果になってしまうこと、

 

などをよ〜く噛んで含ませるようにして言い聞かせます。
そして「実際のところ、どうなの?」と尋ねると、「やりました」と言う場合がほとんどでした。

 

外国人(アジア系の人たち)のつくウソは、日本人のウソと比べると、緻密さがなく、よく観察すればおかしいものがほとんどです。後で考えると、絶対おかしいと思えます。

 

ところが、そんなものでも、リアルタイムでは、騙されてしまうことが結構あるものです。騙されないためには、最初から疑ってかかるような姿勢が必要です。常に「こいつはウソをついているのではないか」と考えていれば、確かに騙されないでしょう。

 

しかし、それは疑うのが仕事の警察官であればともかく、弁護士ならば、依頼者との信頼関係を構築すること自体が難しくなってしまいます。

 

それに、何よりも「万が一にでも、本当のことを訴えている人をウソつき呼ばわりしたくない」という気持ちがあります。ですから、それがウソであると断定することには、相当に慎重になります。だから、どちらかと言えば、騙されてもいい、と考えています。

 

もっとも、同じ騙されるのでも、よい結果を出したのに成功報酬を払って貰えなくて逃げられるという場合には、相当ヘコみますが……。
実際、「先生! いい結果が出たら、約束以上のお礼を払うよ」などと言う人に限って、逃げるのです。
ですから、最近は、そういうことを言う人ほど注意するようにしています。

 

 

退却は玉砕よりずっと難しい (5.2.3)

 

話が相当に脱線しました。話を戻しましょう。

 

結局、何が言いたいのかというと、「人間の心理に抗って決断を下す、というのは、そもそも相当に難しいことだ」ということです。そのために、相当に聡明で賢い女性であっても、くだらない男の稚拙な手口に騙されるし、検事の前で恥をかいたり成功報酬を取りっぱぐれる弁護士も出てくる、ということなのです。

 

そして、相場で言えば「見切る」ということが人の心理として相当に難しい決断であればこそ、それは「千両」にも値する、と言われるわけです。

 

では、「闘い」に引き直せば、これはどういうことでしょうか。

 

これは「退却する」ことを意味します。つまり「退却する」と決断することは「玉砕するまで徹底抗戦する」という決断よりもずっと難しいということです。

 

それは、指揮官が、自分で自分の「負け」を認めることであり、そもそも闘いを始めたことが間違っていたのではないか、として過去の決断の「失敗」さえも問われかねないことだからです。

 

しかし、たとえ負けても、退却して生き延びれば、次に挽回する機会もあるかもしれませんが、玉砕してしまっては、それはあり得ません。ですから、冷徹に判断し、勝てる見込みがないと考えられるときは、長期的・大局的な展望に立って、退却すべきなのです。たとえどんなにツラくても。

 

これを試験について言えば、仮に不合格になった時、「受験を始めた以上は、合格するまで徹底的にやり抜く」として来年も受験することにするという決断は、心理的にはラクなものです。これに対して、受験を断念する、という決断は、相当にツラいものです。これまで受験のために費やしてきた時間と労力と金とを思うと、それがムダになったとは、どうしても考えたくないものだからです。

 

 ――しかし、だからこそ「見切り千両」なのです。

 

この言葉の重みを受け止めなければなりません。


ウソについてもっと知りたくなった方へ……

 

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