第1.1 スーパーマンに格闘技なし!

1 スーパーマンに格闘技なし!

スーパーマンに格闘技なし

スーパーマンの闘い方 (1.1.1)

 

ちょっと想像してみてください。

 

悪党が悪事をはたらいています。そこにスーパーマンが現れます。
「こら、悪党。悪事をやめろ!」
「なんだテメエ」
悪党は、スーパーマンに向かってピストルを撃ちます。

 

パンッ、パンッ、パンッ!

 

けれども、スーパーマンは全然、避けません。弾丸は、スーパーマンの胸に命中します。しかし、スーパーマンの胸は弾丸を跳ね返します。

 

「な、なんだコイツ――」

 

悪党は、こんどはマシンガンを取り出し、スーパーマン目がけて乱射します。

 

ダダダダダダッ……。

 

しかし、やはりスーパーマンは避けません。弾丸は、やはりスーパーマンの体中に命中しますが、やはり跳ね返してしまします。悪党は、こんどは鉄パイプを握ると、スーパーマンの頭目がけて打ち下ろします。

 

ガツッ!

 

鉄パイプはスーパーマンの頭を直撃します。ですが、やはりスーパーマンは何ともありません。ただ、鉄パイプが少し曲がっただけです。さて、こんどはスーパーマンの反撃です。スーパーマンは、悪党の頭を掴みます。目にも留まらぬ速さなので、悪投は逃げる暇もありません。悪党がどんなに抵抗しようと、スーパーマンには何の効果もありません。スーパーマンは、悪投の頭を掴むと、まるでモノでも放り投げるように、ヒョイッと投げ捨てます。

 

このように、スーパーマンの闘い方には、何ら戦法もクソもありません。圧倒的な強さは、戦法も、武器も、いわんや格闘技などまったく必要としません。スーパーマンにとって、ゴミを捨てるのも、悪投を捨てるのもまったく変わりません。

 

しかし、ここに登場したヒーローが、もしスーパーマンではなく、バッドマンだったら、展開は全然違うでしょう。バッドマンは、生身の人間です。ピストルで撃たれたり、鉄パイプで殴られたりすればきっと死ぬでしょう。ですから、弾丸を避けたり、鉄パイプをかわして悪投を殴りつけたり、格闘技のワザを使ったり、あるいは秘密の武器を使ったりするはずです。

 

格闘技を習う人は、強くなりたくて習うのでしょう。格闘技――つまりワザ――を習得することで、同じ体力の者同士ならば、相手に勝つことができるようになります。また、場合によっては、自分よりも体力の上回る相手を倒すことができるようになるかもしれません。

 

武器は、もっと手軽に人を強くするでしょう。男の子が多かれ少なかれ武器に憧れるのは、強くなりたいという願望の現れにほかなりません。

 

このように、格闘技や武器は、強くなって相手に勝つための工夫です。戦法、戦術、戦略というものもそうでしょう。そして、それを必要としているのは、その人が、元来、圧倒的な強さを持たない人だからです。先の例を思い出してください。圧倒的な強さがあれば、格闘技も、武器も、戦法も、何も必要としません。弾丸を避ける必要もなく、ゴミを捨てるように悪投を掴んですれば済むからです。

 

このように、格闘技、武器、戦法などは、そもそもその人が「そこそこの人」だから必要とされるものなのです。

 

「盤石の備え」は非効率的 (1.1.2)

 

どんな人と戦っても負けない強さを備えたい。

 

これは、いわば「スーパーマンになりたい」というのと等しい憧れです。
例えば、いま、ある人が何かの試験を受けるとします。その試験に対する対策として、

 

「たとえどんな問題が出題されても答えられるような準備をしよう」

 

と考えたとします。いわば「盤石の備え」です。
この戦略は、誤ってはいません。どんな問題が出題されても答えられるならば、その試験には絶対に落ちないからです。ただ、これができるかどうかは、別問題です。

 

「盤石の備え」は、いわば「スーパーマンになろう」というのと同じです。実際に、そうなることを考えたら、そりゃもう死ぬほどの苦労でしょう。というか、実際にそうなれるかどうかは、わかりません(たぶん無理でしょう)。

 

それでも、相手が、スーパーマンでなければ勝てないような相手ならば、仕方ありません。スーパーマンになるよりほかに勝つ方法がないからです。しかし、多くの場合は、そうではないでしょう。「その相手」に勝つためには、必ずしもスーパーマンのような圧倒的な強さは必要としないはずです。そうであれば、スーパーマンになることは「究極の目標」を達成するための手段としての「当面の目標設定」として、合理的ではない=高すぎる、ことになります。

 

これは、試験でも同じです。確かに「どんな出題がされても答えられる」ようになれば、試験には落ちないでしょう。しかし、そのような「盤石の備え」をしなかったら合格できないか、というと、そうではないはずです。そうだとすると、この場合も、究極の目標を達成するための手段としての当面の目標設定として、不合理に高すぎるということになります。

 

ふつう、自分がどの程度であれば相手に勝てるかを考えると、「相手よりも少しだけ強ければ相手に勝てる」と考えることができます。これは試験でも同じで、合格ラインよりも少しだけ上の実力であれば合格できる、と考えられます。そうすると、試験に合格するという究極の目標にとって、「盤石の備え」をすること、「スーパーマン」になることは、まったくもって必要ではありません。ですから、試験に合格するための当面の目標として、このような目標を設定することは、不合理であり、非効率の極みです。ですから「たとえどんな問題が出題されても答えられるような準備をしよう」という戦略は、誤りではないとしても、現実的ではありません。

 

盤石の備えは非効率的

 

相手と状況によって闘い方を変える (1.1.3)

 

では、逆にどんな戦略だったら最も合理的でしょうか。

 

それは、ひと言で言えば「相手と状況によって闘い方を変える」という戦略です。
日本には、これを最もよく表現するよい言葉があります。

 

「臨機応変」

 

がそれです。
これは「機に臨み、応じて変える」ということでしょう。辞書を引くと「臨機応変」は「その時その場に応じて、適切な手段をとること。また、そのさま」などと説明されています。

 

「盤石の備え」は、いついかなる場合にも対処できるような備えでしょう。このような備えをするには、あらゆる相手、あらゆる状況を想定して準備しなければなりませんから、その準備に必要な労力と時間は莫大なものになります。これに対して「臨機応変」つまり、その時、その場にに応じた手段を考えるならば、特定の相手に対する、特定の状況下での対策をすれば済みますから、その準備は一種類のものに絞られ、必要とされる労力と時間も抑えられます。しかも、その相手に勝つ、という目標は達成できるわけです。

 

試験で言えば、その試験で要求されているものは何か、どの程度達成できれば合格できるのか、などの情報を収集したうえで、自分に欠けているものを考え、必要な限度でそれを埋めていく、という戦略です。

 

この戦略であれば、それに費やされる労力と時間は、最低限度に抑えることができますし、また、多くの人にとって実現可能になります。

 

多くの人はいろいろ不十分 (1.1.4)

 

思えば、ふつうの人というのは、スーパーマンのようにすべてを十分に持ち合わせているわけではありません。

 

例えば、戦いを例にとるならば、これに必要と考えられる、パワー、スピード、スタミナ、すべてにおいて不十分な存在です。そして、これらを、後天的にスーパーマンのレベルにまで引き上げようというのは、不可能です。ですから、ふつうの人が「盤石な備え」をしようというのは、どだい無理な話なのです。

 

ですから、ふつうの人がとることのできる現実的な戦略として、どうしても、ある相手、ある状況を想定した「臨機応変」なものとならざるをえません。しかし「臨機応変」の戦略ならば、ふつうの人でも実行可能であり、そこに勝機が生まれます。

 

ここでは、このような、パワー、スピード、スタミナのいずれにおいても不十分な、ふつうの人のことを「そこそこの人」と呼んでいます。このような「そこそこの人」であっても、闘い方を考えることによって、その持っている能力を2倍にも、3倍にも発揮できるようにしよう、というのが、このサイトが伝えたいことであり、そこそこの人がそれぞれに持っている能力を最大限に活用する方法を考えるというのが、その狙いです。

 

本来、人は生まれながらにして平等です。命の価値として、そこに上下はありません。しかし「持って生まれたものが平等か」と言えば、そうだと言えるほど私は偽善者ではありません。頭のいい人とそうでもない人、ルックスのいい人とそうでもない人、運動神経のいい人とそうでもない人、さらに言えば、裕福な家に生まれた人とそうでもない家に生まれた人。私たちは、日常さまざまな不平等に接し、それを感じています。「なんでオレはアイツみたいにカッコよく生まれてこなかったんだろう」なんて考えても、しょうがないことです。もっとも、ルックスであれば、現在の美容整形の技術をもってすれば、相当に事後的な改善はできるのでしょう。しかし、頭の出来や、運動神経などになると、そういうこともできません。

 

しかし、そうは言っても、所詮は「五十歩百歩」、「ドングリの背くらべ」とも言えます。優れている劣っていると言っても、多くの場合は、前例として出したスーパーマンと悪党ほどの圧倒的な開きはないのがほとんどです。ですから、そこには、闘い方によっては、逆転もあるわけです。

 

「大貧民」でのし上がれる人 (1.1.5)

 

「大貧民」あるいは「大富豪」と呼ばれるトランプ・ゲームがあります。ご存知でしょうか? ご存知でない人のために簡単にルールを説明すれば、次のとおりです。

 

まず、5〜6人のプレーヤーに対してすべてのカードを配り、プレーヤーは手札の中から順番にカードを場に出していきます。出し方は、1枚だったり、同数の2枚以上、同種連続の3枚以上などがあり、最初の人が出した出し方に従わなければなりません。また、後の人は、前の人よりも強いカード(2が最強で、3が最弱)を出さなければならず、出せない人は飛ばされます。こうして順番にカードを出して行き、できるだけ早く手札のなくなった人が勝ちというゲームです。

 

基本的なルールはこういうものですが、このゲームの「興味深い」のは、その後です。

 

プレーヤーは、勝った順に「大富豪」「富豪」「平民」「貧民」「大貧民」という地位を与えられます。「平民」はプレーヤーの人数によって複数になることもあります。さて、次のゲームのためにカードが各人に配られた時に、この地位が意味をもちます。「大貧民」は自分の持っている最も良いカード2枚を「大富豪」に差し出し、代わりに「大富豪」から悪いカード2枚をもらいます。「貧民」と「富豪」も同様で、「貧民」は同様に良いカード1枚を「富豪」に差し出し、「富豪」から悪いカード1枚をもらいます。そして、次のプレーが始められます。

 

つまり、一度「大富豪」「富豪」になれば、次のプレーでは、必ず有利な地位からスタートできることが約束され、「貧民」「大貧民」になれば、必ず不利な地位からスタートすることが強いられます。そのため、一度「大貧民」「貧民」になってしまうと、その地位から抜け出すことは極めて難しく、そのあたりが、社会の縮図のようでもあり、このゲームの皮肉の効いたところです。

 

「大貧民」のしくみ

 

なお、このゲームには、数多くのローカルルールがあるようですが、このゲームの詳細はここでの本筋ではないので、置いておきましょう。

 

この「大貧民」(または「大富豪」)と呼ばれるカードゲームでは、ひとたび「大貧民」になってしまうと、そのプレーヤーは、とても不利な地位を強いられます。しかし、だからと言って「大貧民」になってしまったプレーヤーが永遠にその地位から這い上がることが難しいか、というと、実はそうでもありません。

 

トランプゲームの多くは、その配られるカードの偶然性によって勝敗が大きく影響を受けますが、それだけでなく、プレーヤーの闘い方――つまり札の出し方――も勝敗を大きく左右します。このゲームなどは、それほど複雑なものではありませんが、それでも、どのカードをいつ出し、どのカードをいつまで温存するか、などの判断によって勝敗は随分と変わります。そのため、プレーヤーの力量によっては、すぐに「大貧民」から抜け出し、「貧民」「平民」とどんどん地位を上げ、しまいには「大富豪」にまで上り詰める、という人もいるわけです。

 

さて、このことは、私たちに何を教えてくれるでしょうか?

 

確かに、私たちが直面している現実の人生にも、いろいろな意味での不平等があります。けれども、その差は、大局的に見れば「ドングリの背くらべ」であり、このトランプゲームにおける「大富豪」と「大貧民」とのカードの良し悪し程度でしょう。

 

そうであるならば、このトランプゲームにおいて、闘い方が意味をもち、闘い方によっては、大貧民からのし上がることができるように、私たちがその「生まれ持ったもの」において他の人に劣るところがあったとしても、闘い方によっては、それの差を補い、逆転することもできる、ということです。


スーパーマンをご存知でない方へ……

 

バットマンをご存知でない方へ……

 

「大貧民」についてもっと知りたい方へ……

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