第2.1 敵を小さくするとは?

1 敵を小さくするとは?

敵を小さくする方法

「敵を小さくする」とは? (2.1.1)

 

「敵を小さくする」とは、

 

その目標を達成するために自分がしなければならないことを、できるだけ小さく絞る

 

という戦略です。

 

例えば、試験で言えば、一般的には「出題範囲」によって試験勉強しなければならない範囲は限定されます。しかし、出題範囲の中でも、出題されやすいところと、出題されにくいところ、というのは、当然にあります。しかも、択一式試験のように、かなりの問題数が出題され、なおかつ、満点を取らなくても合格できるという試験の場合であれば、出題されにくい箇所は、ばっさりと切り落として勉強の範囲から除いても、合格には影響はありません。そこで、このような形で「本当に勉強しなければならない範囲」を絞っていきます。そして、このようにして「敵」をどんどん小さくすることができれば、たとえ弱くて小さい自分でも、勝機が見えてくるわけです。

 

私が司法試験を受験していたころ、受験科目は7科目で、最低でも11冊程度の教科書を読む必要がありました。1冊の教科書の頁数をだいたい400頁とすると、全部で4400頁ほど読まなければならない計算です。しかも、読むだけではなく、出題されたときに論文答案が書けるように準備するとなると、これを理解し、憶えていなければなりません。そのように聞くと、気が遠くなりそうだと思います。

 

しかし、実際には、合格した人でも、これだけの頁数を読むことはしても、全部をつぶさに理解し、憶えていたわけではありません。司法試験の世界では、教科書のうち本当に必要なところは、全体の2割程度だ、と言われていました。これについては「2対8の法則」とか「パレートの法則」と呼ばれる考え方を引用して、

 

問題の8割は、教科書の2割の部分から出題されている。
しがたって、2割の部分をしっかり理解していれば、8割の問題に対応できる

 

などと説明する人もいました。いずれにしても、この考え方に従えば、単純に考えれば4400頁理解しなければならなかった教科書が、880頁にまで減るわけです。4400頁ならばもう無理という感じでも、880頁ならば何か手が届きそうな気がしませんか? これが「敵を小さくする」という戦略です。

 

2対8の法則、パレートの法則

 

この考え方は、いろいろな形で応用することができます。実際の戦争という場面でこの考え方が用いられているのは、織田信長の有名な「桶狭間の戦い」でしょう。「桶狭間の戦い」は、大軍を引き連れて尾張に侵攻してきた今川義元に対し、織田信長が、10分の1とも言われる少数の軍勢で、本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を潰走させたというものですが、ここで、何故、少数の軍勢で大軍を倒すことができたかといえば、それは「桶狭間」という狭い地形にその理由があったわけです。狭い地形であれば、大軍は細く長くならざるを得ず、しかも、その一部が襲われても、他の部分がこれを助けることは困難でした。そのために、「桶狭間」では、織田信長の軍勢は、実際に戦わなければならない相手をごく僅かにすることができました。つまり、この戦いにおいて織田軍は「敵を小さくする」という戦略によって今川軍に勝った、と言えるわけです。

 

『孫子』にも、このことが書かれています。『孫子』は、こちらは集中して一団になり、敵は分散して10隊になるというのであれば、その結果、こちらは10人で敵の1人を攻めることになる、と説明しています。そして、そのような状況を作り出すために、「虚実」という方法(敵にはハッキリとした態勢をとらせ、こちらは態勢を隠して無形にするという方法)をとるべきだと言います。上記の「桶狭間の戦い」は、この孫子の教えを地で行った好例と言えるでしょう。

 

手を拡げない (2.1.2)

 

このように実際の戦争でも使われている「敵を小さくする」という戦略ですが、この考え方は、戦争や試験だけではなく、日常生活のいろいろな場面に活用できるものです。本章では、その例も含めて見ていきますが、まず、何よりも、その真髄を十分に理解することが大切です。真髄を理解せずに活用しても、誤った活用にしかならず、本来の効果を発揮しないからです。

 

さて、この「敵を小さくする」という戦略の意味をよく知るには、まず、その「真逆」にあるものを見てみるとよいでしょう。それは、

 

「手を拡げる」

 

というものです。実際、日常生活の中でも「手を拡げすぎるなよ」という言葉は、しばしば耳にするところですが、この「手を拡げる」ということが、まさに「敵を小さくする」というのと真逆の行いなのです。

 

「手を拡げる」とは、備える範囲を広くする、ということです。そうなれば、それだけこちらのやるべきことが増えるわけです。そして、それを同じ時間でこなそうとすれば、当然に、それだけ大きな労力(パワー、スピード、スタミナ)がこちらに必要になります。もし、このような労力の余裕がなく、しかも、それにかけられる時間が同じならば、当然一つひとつに対してかけることのできる労力が不足し、手薄になります。

 

例えば、10個の項目があり、こちらの労力のレベルが10であれば、1個に対して1のチカラを費やすことができます。ところが、もし、手を拡げて項目を20個に増やすと、1個の項目に対して振り当てられるチカラは0.5になってしまい、これまでの半分になってしまいます。しかし、もし一項目に対してそれを充分こなすために1のチカラが必要だとするならば、この場合には20項目全部に対して、不十分な対応しかできていないことになってしまいます。試験勉強で言えば、全部に対して理解が不十分という状況です。これでは、到底合格することはできません。

 

多くの場合、あとから手を拡げて、対応すべき項目を増やした場合、その増やされた項目は、元から存在していた項目よりも、重要度が低いのが普通です。それなのに「手を拡げる」と、その重要度の低いものを加えたがために、重要度の高い項目からそのチカラが奪われ、重要度の低いものへとチカラが振り分けられ、結果として、本当に必要な重要度の高い項目に対する手当が不足してしまうのです。これが最悪の事態を生みます。

 

手を広げるとこうなる

 

「手を拡げる」ということをしてよいのは、労力と時間とが有り余っている場合です。現時点において、自分の持っている労力と時間とを最大限に活用し、ギリギリでやっているという場合には、「手を拡げる」ことは命取りになります。

 

しかし、実際には、多くの人が、この決してやってはならない「手を拡げる」ということをしてしまうのです。それはそこに手を拡げたいという「欲求」とそれを煽る「巧みな誘惑」があるからです。

 

例えば、私の知っている例では、司法試験予備校にはそういう傾向があります。予備校は、商売ですから、テキストだけでなく、いろいろな教材を受験生に買わせようとします。その際「ここを押さえておかなければならない」ということを受験生にアピールします。例えば「今年の合格を目指すならば押さえておくべき最近の最重要判例」などと言うわけです。そうすると、どうしてもそれに手を出してしまいたくなります。特に、他の受験生はこの本を買って「最近の最重要判例」を押さえているのだと思うと、不安になるでしょう。自分だけがその判例を押さえていなければ、彼らに差を付けられてしまうのではないかと居ても立ってもいられなくなります。そして、その教材を買ってしまうわけです。しかし、そうでなくても勉強しなければならない事項が多すぎてあっぷあっぷしているのに、そんなことに割く労力も時間も、本来はないはずなのです。それにもかかわらず、不安と誘惑に負けて手を拡げてしまうと、本来すべきものがおろそかになり、その結果は見えています。

 

この例に限らず、予備校は、受験生に対して「情報」を与えるのが使命だと考えているフシがあります。そして、このことは、必ずしも間違いではありません。誤解のないように言いますが、私は、予備校を批判しているのではありません。実際、予備校は、とても便利なものです。特に、試験という「敵」を知るにあたり、予備校は、非常に有効な情報源です。だからこそ受験生は、予備校に「情報」を求め、予備校は、受験生に対して「情報」を与えようとします。そして、予備校が「資料」を作り、これを受験生に配布すると、受験生は得した気分になって、これに対して喜んでお金を払うわけです。だから、ますまず予備校は「資料」を作って配ったり、さらにいろいろな教材を出版するわけです。

 

しかし、問題なのは、一定の量までであればとても有効な情報も、その量を超えると、一転して害悪になる、ということです。これは、一定の量までは有効な薬も、その量を超えると毒になる、というのと同じです。情報は、一定の量を超えると、利用者において、何が重要な情報で何が重要でない情報なのかが判断することすらできなくなり、いわゆる「情報の海に溺れる」という状態に至ります。

 

情報の海に溺れる

 

情報は、その収集に労力と時間を要するのと同じく、その利用にも選別にも労力と時間を要します。ですから、人は、その人の利用能力を超える情報が与えられると、何とか重要な情報を選別してこれを利用しようとするのですが、その選別能力をも超える情報が与えられると、その選別もできず、結果、情報を利用できない状態に陥るのです。結局は、バインダーに大量の資料を綴じるだけで、それを読むこともできず、そのまま、というわけです。これが最悪の事態であることは、明らかでしょう。

 

本当に必要なことだけに絞る (2.1.3)

 

そこで、重要なことは「本当に必要なことだけに絞る」ということです。

 

試験の場合であれば「これだけを本当にしっかりと理解すればよい」という範囲に、勉強すべきことを絞ることができれば、そこだけに全勢力を集中することができます。そうすれば最小の労力と時間とで最大の効果を上げることができるはずです。

 

ここにおいて必要となるのは、情報の選別という作業です。

 

この点は、そもそも情報が不足していた時代には、情報の収集こそが重要で、情報の選別に悩むということはありませんでした。例えば、私が司法試験を受けていた時代には、どの先生が書いた体系書を教科書として選ぶかということについて、はやり悩みはありましたが、それより古い時代になると、ほとんど定番といわれる本が限られていて、選択の幅がとても狭かったために、かえって悩みはなく、楽だったとも言えるわけです。しかも、古い時代には、出版するということ自体が大変なことだったのでしょう。ですから、本を出版することができる人も出版社において厳選され、書く方にも気合いが入りますから、おのずと濃密な本になると考えられます。いま読んでみても、そういう意気込みが伝わってくるような著作が多いのが事実です。

 

ところが、現在では、おそらく出版自体が非常に気軽になされており、体系書も非常に多数出版されています。予備校が出版しているテキストなども混ぜれば、驚くべき選択の範囲です。しかし、だからこそ、どれを使ったらよいのか、という悩みが生まれるわけです。もちろん、すべてに目を通してそれを選ぶというのは、不可能です。
そんなときどうするか?

 

その答えも、また、予備校です。「情報の海」を作り出している一因である予備校ですが、その「情報の海」の中から情報を選別するための情報も、また、予備校が最も有効に与えてくれるのです。なんとも皮肉な話ですが、結局、そういうことです。

 

そこで、例えば、司法試験の場合であれば、まずは最初に、予備校に情報を求めて、司法試験という「敵」についてよく知るようにし、その上で、それを突破するために必要かつ最小限の教材は何なのかを予備校のチカラを借りて選別する。まずは、それが必要なのです。


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