第3.4 欲望を牽引力にする

4 欲望を牽引力にする

欲望を牽引力にする!

人は欲望の奴隷である (3.4.1)

 

人は、理性をもち、合理的に考え、自由に意思決定し、行動することができます。けれども、自分の身体の奥底から湧き上がってくる欲望や、心の奥底から湧き上がってくる感情を自由にすることはできません。そして、この欲望や感情は、自分の意図することを妨げます。

 

例えば、頭では「勉強したい」と思っているのに、身体は「トイレに行きたい」と言っているとします。少しの間なら我慢して勉強を続けることはできますが、その我慢はそう長くは続かないでしょうし、効率は極端に低下してしまいます。これは、トイレに行きたいという「排泄欲」以外の生理的欲求についても、同様です。眠いときに、無理して、顔をパンパン叩いたり、冷水で顔を洗ったりして勉強を再開しても、やはり眠くなってしまい、効率も落ちてゆきます。

 

こういう場合に「気合いが足りない」とか「精神がたるんでる」などと、昔はよく言ったものですが、こういう精神論でこの状態を解消できるとは、到底思えません。短い間であれば、欲望と折り合いをつけながら何とかやり過ごすことはできますが、長期的には、まったく無理ですし、特に、勉強のような高度な精神活動においては、効率が落ちてしまって話になりません。

 

こういう欲望に対しては、素直に自分がその「奴隷」であることを認め、これを解消するための方策をとるしかないのです。例えば、トイレに行きたいのならばトイレに行き、眠いのなら睡眠をとる。これしかありません。そして、その他の「欲望」や「感情」にしても、その強弱の程度はあるにしても、基本的には同じことです。女の子とデートしたい、パチンコに行きたい、などなど。そこで、このような欲望や感情が湧いてきたときは、我慢するのではなく、いち早く、出来るだけ時間を浪費せずにその欲望や感情を満足させることで、もう一度、勉強に戻ってくるほうが合理的です。

 

「毒」は「薬」にもなる (3.4.2)

 

このように、欲望や感情は、人の奥底から湧き上がり、人を支配するやっかいなものです。

 

しかし、欲望や感情は、何の脈絡もなく、何の法則性もなく出現するものではありません。トイレに行きたくなるのは、水分を取った後しばらくトイレに行っていないからでしょうし、眠くなるのは、睡眠時間が不足しているからです。ですから、先手を打つことでそれが勉強中に出現することを避けることは、当然にできます。勉強を始める前にトイレに行っておけば、勉強中にトイレに行きたくはなりません。あらかじめ充分な睡眠時間をとっておけば、勉強中に眠くなることはありません。

 

つまり、その出現する法則性を考えて、先手を打っておけば、欲望や感情によって勉強を妨げられることはありません。そういう意味では、欲望や感情は、いわば「猛獣」のようなものですが、その生態をよく知ることで、これを飼い慣らすことは可能です。

 

しかし、それだけではありません。何事につけ言えることですが、チカラの弱いものは、毒にも薬にもなりませんが、チカラの強いものは、毒にもなれば、薬にもなります。つまり、欲望や感情が「猛獣」であるなららば、これを上手く飼い慣らし、利用すれば、もの凄いチカラを発揮する有能な「家畜」にもなる、ということです。このことは、馬や牛が有能な「家畜」であることを想起すれば明らかでしょう。

 

つまり、欲望や感情は、うまく利用すれば、人に大きなチカラを発揮させる牽引力にも推進力にもなります。昔から「馬の目の前にニンジンをぶら下げて走らせる」というマンガがよく描かれますが、早い話がアレです。

 

欲望を牽引力にする (3.4.3)

 

昔、VHSのビデオデッキが爆発的に普及した背景には、アダルト・ビデオや裏ビデオが見たいという「性欲」が影響していたという話を聞いたことがあります。CDドライブの装備されたパソコンの普及にも、また、インターネットの普及にも、そういう「性欲」が一役買っているという話も、耳にしたことがあります。

 

真偽のほどは定かではありませんが、確かに、人は――というか男は――「見たいとなったら、何が何でも見たい」ものであり、どんなに高価であっても厭わないというのは、容易に察せられるところです。そのため、この話には、さもありなんと人を信じさせる説得力があります。

 

社会主義は、一時期世界に一定程度広がり、その後、すぼんでしまいました。なぜでしょうか。

 

資本主義国家では、基本的に「自助の原則」が働き、自己責任で何でもしなければならなず、失敗すれば自分の責任というのが原則ですが、その反面、自分が頑張って働けば、その分、自分に利益が返ってくる、ということになっています。

 

ところが、社会主義では、みんなが公務員ですから、他人より頑張って働いたからと言って、それが直ちに収入に跳ね返ってくるわけではありません。いくら一生懸命に頑張って働いても、ぷらぷらとやっている同僚と給料は変わりません。頑張ったからよい生活が送れる、というわけでもありません。そうなると、どうしても人は、頑張っても頑張らなくても同じなら、頑張らない、ということに流れがちです。そして、そういう考えを国民の全員が持てば、人は働かなくなり、国全体の活力が落ちてしまいます。結果、貧しい国になってしまうわけです。

 

同じことは、資本主義社会における公務員制度にも言えます。公務員は、国や地方公共団体に雇われ、そこから給料をもらいます。公務員が携わる仕事は、公共的な重要な仕事であり、自分の家計の心配などしていては、その職務に邁進することはできません。ですから、国や地方公共団体が給料を払い、生活の心配をなくすことで、職務に邁進してほしい、というのがその背後にある本当の狙いでしょう。しかし、実際には、どういう現象が起こるかというと、「安定」を求めて公務員になり、必要最低限のことしかしない、ということです。

 

同じような業務を、国や地方公共団体が行う場合と民間が行う場合とを比較すると、どうも民間の方がサービスがよい、というのは、多くの人が感じるところでしょう。ある業務を民間に委託すると、その業者はその「おいしい」委託を切られないように頑張るので、お客の評判が悪くならないように頑張ります。のみならず、評判がもっとよくなるようにと、日夜サービスの改善を図り、お客が喜んでくれるように頑張ります。それが、公務員だとそうはなりません。

 

社会主義にしても、公務員制度にしても、うまく機能しないのは、欲望が牽引力になるように設計されていないところに原因があるように思います。「崇高な理想」とか「使命感」だけでは、長続きはしないのです。


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